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紀尾井町を知ると、東京がもっと面白くなる

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東京ガーデンテラス紀尾井町は、これまで様々なところで「紀尾井町は由緒正しい町」と発信してきました。今回は、東京ガーデンテラス紀尾井町の再開発にあたって発掘調査に関わった江戸都市史研究家、後藤宏樹さんにその理由を改めてお聞きしました。江戸の町の名残りは、意外にも、東京にたくさん残っているんです!

東京に江戸の面影を探して

――江戸都市史研究家として活躍されている後藤さんですが、東京の様々な都市再開発プロジェクトに携わり、NHKの人気番組『ブラタモリ』での案内人をはじめ数々の講演などで江戸時代のまちづくりについて、とてもわかりやすく、楽しくご紹介されていますね。はじめに、後藤さんが江戸時代の町に興味を持ったきっかけを教えていただけますか?

実は、仕事でやらざるを得なくなった、というのがきっかけなんです(笑)。大学の頃は江戸時代ではなくてもっと古い時代を研究していたんですよ。千代田区の図書館学芸員や、同区の地域振興部で文化財係を担当した経緯から、どんどん自分でも興味を持って調べるようになりました。遺跡の発掘をする際には本として残したり、積み上がってきた史料や知識をもとに展示をしたり、東京ガーデンテラス紀尾井町(以下、TGT)のように都市再開発プロジェクトなどに携わらせていただいたりして、江戸の遺跡が残る場所に解説板をディベロッパーさんなどに協力してつくってもらうということを通して、私自身も少しずついろんなことを学ばせてもらってきました。

――東京を歩いていても、史跡の表示板などがない限り意識せずに通り過ぎてしまうことが多いと思うのですが、概して東京とは、江戸時代の名残が多くある町だと言えるのでしょうか? 

そうですよね、東京の中心に江戸時代の痕跡が残っていることをあまり知られていないと思います。かくいう私自身もそうでしたから。千代田区に関する仕事に携わることになって「えっ、千代田区に江戸時代の遺跡なんてあるの?」と。今は仕事柄、皇居東御苑(*1)などを案内することも多いのですが、東御苑=皇居でしょう? それが江戸城だったの?と聞かれることもとても多いんですよ。

――確かに、歴史の教科書にも出てきますし、江戸城という名前はよく知られていますが、どこにその跡があるのかきちんと知らないことも多いと思います。

きちんとアナウンスできていないことが私たちの一つの大きな課題でもあるのですよね。都道府県の県庁所在地にお城が当時の形のまま残っていることも多いですが、実は江戸城跡も調べていくと、城郭やお堀など多くの部分が残っているんです。江戸城の敷地の周りには内堀があって、その内堀に囲まれた一帯は内郭(うちぐるわ)と呼ばれる城の中心部です。そしてその外側には外堀がめぐらされています。基本的に外堀は、神田川が流れる御茶ノ水から、南は虎ノ門までぐるりと形成されていました。この外堀をつくったのが、3代将軍・家光ですが、外堀は大名屋敷をはじめ、旗本(禄高が1万石以下の家臣)などの屋敷が建ち並ぶエリアを囲う堀ですね。参勤交代で江戸に来る藩主が暮らす屋敷を整える必要があったので、外堀を建設して、その周辺を再開発していったんです。
そういう意味では、外堀の内と外ではかなり違いがあるでしょう。内側には町人(*2)が集まった町人地も結構あるのですが、それは大名屋敷あるいは旗本屋敷に物資を供給するために町人地を置かねばならなかったという理由があります。ですから、上流階級というよりも、町人のなかでも古くから住んでいる人たちの町が内堀と外堀の間に整えられていったと言えますね。

――江戸時代は、外堀の外側よりも内側のエリアが優先的に開発されたということですね。

そうですね。計画都市のようなものとイメージしていいでしょう。例えば、港区の麻布周辺は高低差のある入り組んだ土地なのですが、麻布十番のあたりは各国の大使館が多く存在していますね。それは大名屋敷などの広大な武家地が引き継がれたためです。ところが元麻布のように谷間にあたるエリアのように、明治時代に入ってから計画的ではなく庶民がどんどん集まってきて生まれた町も結構多いのですよね。現在は高級地となっていますが、歩いてみると、その名残りを感じるお宅がポツンと残っていたりもするんですよ。

――現在、そのような跡を見つけるためには、町のどのようなところに着目したらいいでしょう。

例えば現在は「外堀通り」という通りの名前になっていて、堀自体は埋め立てられて道路になっているものの、外堀りの全体を追うことができるほど要素が残っているんですよ。そのような事実が知られていないということを私自身も実感した経験から、江戸の町が今も多く残っていることを多くの人に知ってもらうことが、私の残された人生の使命なんだといつしか思うようになりました。

――通りの名前などにも江戸時代の痕跡を辿るヒントが隠されているということですね。

川や堀の名前もそうですし、坂の名前にも。着目してみると、説明板などは案外いろいろなところに設置されているものなのですが、坂の名前は江戸時代以来のものが大半なんです。例えば、千代田区には「富士見坂」や「潮見坂」という坂がありますが、台地から富士山がよく見えた、海を望むことができたということが由来になっていて、要はその地形を表しているのですね。他にも九段南4丁目と5番町の境にある「帯坂」は、江戸時代の怪談『番町皿屋敷』のヒロインであるお菊さんが、身投げした井戸まで帯を引き摺りながら降りていった坂だという言い伝えがあったり、港区の三田にある「幽霊坂」は、そのあたりはいつも真っ暗で本当にお化けが出てきそうだと噂されていたことが由来だったり。

紀尾井町が“由緒正しい町”である理由

――そういったことに少し注目して見てみると、いま自分たちの住んでいる町の歴史に興味が湧いて面白く見えてきますね。そのなかでもここ紀尾井町というのは、どのような町だといえるのでしょうか。

紀尾井町は明治に入ってから付けられた町名ではありますが、大名御三家の紀州徳川家、尾張徳川家、彦根井伊家の3つの屋敷があったことが紀尾井町の地名の由来となったことが知られていますね。そのような意味でも、由緒正しい街だと言えるのではないでしょうか。

――現在もその名残りはあると言えますか?

やはり高級官僚や財界人の方などが住んでいることが多いのではないでしょうか。武家屋敷が並んでいた紀尾井町は一区画の面積が大きく、明治維新後には北白川宮邸や伏見宮邸など皇室の方々が住むお屋敷が建てられたり、現代へと移ろうなかで広大な敷地を利用してホテルが建設されたり、東京ガーデンテラス紀尾井町の再開発プロジェクトへと繋がっていったりするわけですね。紀尾井町はじめ特に千代田区は、江戸時代からの特色が引き継がれた町の名残りが色濃いエリアだと考えることができます。

2011年、旧李王家(現在の赤坂プリンス クラシックハウス)の保存工事の過程で、地中から見つかった旧北白川宮邸洋館のレンガ積みの基礎。現在、プリンス通りに面する東京ガーデンテラス紀尾井町内にある赤坂プリンス クラシックハウスの生垣に、一部が保存されている。

――TGTが建設された際には、後藤さんはこの一帯の発掘調査に携わられています。

この土地を発掘調査した際に、最初に紀州藩邸として遺跡の登録がされたことを発端に、のちに私も再開発として計3か所の発掘調査をさせていただきました。そのように、再開発などで遺跡が出てくると、施主さんにお願いをして発掘調査ができることになっています。

――TGTの発掘調査ではどのような文化財が見つかったのですか?

紀尾井町通りに近い土地の低いエリアからは、大名の家臣団の人たちが食したであろう貝類など、食生活がわかるような資料が出土しました。また、TGTのレジデンス側の高台になっている場所では、建物や赤坂門の跡が出てきたんです。現在、赤坂門の一部を復元したり解説板を設置したり、紀州藩邸の石垣が出土したものをもう1度同じところにつくり直しをするなどして、TGTの敷地内で見ることができるようになっているんですよ。

弁慶濠に面する位置に現存する高さ15メートルの高石垣は、赤坂門の一部。福岡藩主の黒田忠之が寛永13年(1636)に築いた石垣で、石には家紋である「裏銭紋」の刻印が多く見られる。「刻印は権威を表するためではなく、石を輸送する際の目印だったと考えられています」と、後藤さん。

――もともと紀尾井町の一帯では、そのように文化財を保存するような取り組みが行われていたのでしょうか。

いえ、大変なものが出てこない限り基本的に、記録保存として埋蔵文化財の本を制作したら再開発が進められるのですが、紀尾井町は江戸城の外堀に面しているということもあって、その遺跡を保存する取り組みが行われました。発掘調査には、大学でいえば教育を受けた専門職の人や、博物館の学芸員の資格を持つ人たちなどのプロが携わっているんですよ。

――TGTの「空の広場」をL字型に取り囲む石垣の一部も出土したものだそうですね。

ええ、発掘した際に江戸期の下水の一部である石垣が見つかったんです。それを全て掘り出して、TGTで当時とほぼ同じ位置につくり直しをしていただきました。ですから、現在の「空の広場」のあたりは史跡でつくられているということですね。

――江戸時代に既に下水道が整っていたことにも驚きです。紀尾井町は、水に縁のある町だと聞いたことがありますが、そのゆえんでもあるのでしょうか。

もともと川が流れていた土地を整備して、弁慶濠などの外堀にしているということが挙げられますね。現在の浄水システムの基礎に直接的になっているとは言えないのですが、紀尾井町一帯は、4代将軍・家綱の時代に整備したと伝わる玉川上水を導水しているんです。玉川上水は、四谷大木戸(関所)から四谷門、麹町通り、新宿通りを抜けて半蔵門まで至るのですが、明治以降に衛生上の問題から新たな水路として、玉川上水を引いて分水する淀橋浄水場(1965年廃止)が建設されました。玉川上水を近代水道として整備したと捉えることはできますね。

――紀尾井町はそのように歴史ある由緒正しい町であるのに、案外知られてない場所でもあるような気がします。駅の名前になっていたらもう少し知名度があったようにも思うのですが……。

明治22年(1889)に甲武鉄道(中央線の一部の前身)が敷かれましたが、明治27年に、四谷門がある場所に四ツ谷駅が開業したんです。同様に、赤坂門があった場所が赤坂見附駅、半蔵門などもそのまま駅名となりました。そのように、基本的には陸地の要所となる街道の拠点に駅を建設していくので、駅名には優先的にそれぞれの門の名前が採用されるものなのですね。

――なるほど、そういう理由があるのですね。ぜひより多くの人にTGTを訪れていただいて、史跡を見ていただけたら嬉しいですね。最後に、後藤さんが今後どのようなことに挑戦していきたいかなど、教えていただければ嬉しいです。

今後も、これだけ高度化した東京の中で“江戸”を見つけていく工夫をしていきたいと思っています。東京に点々として残る要素をつないで、江戸の土地の歴史が垣間見えるようなこと、ですね。そのように紐解いていくことで、きっと、東京がより面白く感じられると思いますから。

後藤 宏樹(ごとう ひろき)/江戸都市史研究家

専門は、江戸城や江戸の大名屋敷など城下町の研究。千代田区立日比谷図書文化館文化財事務室学芸員、千代田区地域振興部 文化振興課 文化財係主査を経て、様々な講演やNHK『ブラタモリ』で案内人を務める。

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